忘れえぬ名馬vol.1 サイレンススズカ

~音速の彼方へ~

本来であれば、サイレンススズカはこの世に存在しなかったかもしれない。
当初、母ワキアにはバイアモンの種が付けられていた。
しかし2度付けて2度とも不受胎。
それでは、と生産者が種付け権を持っていたトニービンを付けようとするも、ワキアが発情した日のトニービンの予定はすべて埋まっていた。
そこで、社台側が推薦したのがサンデーサイレンスである。
サンデーサイレンスの仔はまだデビューしておらず実力は未知数であった。
恐らく、この時はまだ誰もこのドタバタの先に生まれる仔が史上最速馬の名を欲しいままにし、後続馬に影をも踏ませない逃げでファンを魅了し、後世に語り継がれる名馬になろうとは思っていなかったであろう。

生まれた仔は小柄でまるで牝馬のようだった。
ただ、走るのは速かったらしい。
仔馬が反抗的な態度を取ると、雪の深いところへ入れ身動きを取れなくすることで反抗的な態度を萎えさせる、という飼育法があるが、力のあるサイレンススズカはその雪の深みからも悠々と脱出してしまったため、
この飼育法は効果がなかったようだ。
そんなやんちゃな仔馬だったが、母の名から「ワキちゃん」と呼ばれ牧場の皆から愛された。

デビュー

遅生まれのサイレンススズカは3歳の冬にやっと橋田厩舎に入厩した。
デビューは年が明けた2月。
新馬戦では、後に重賞でも活躍するパルスピードに7馬身差を付け圧勝。
すわ、今年のダービー馬はこの馬か、と期待されたが、続く2戦目の弥生賞でミソが付く。
ゲートをくぐって外へ出てしまったために外枠発走となってしまったのだ。
さらには出遅れてスタートから10馬身近い差を付けられてしまう。
3~4コーナーで何とか追い上げるものの、そこで力尽きランニングゲイルの8着に敗れる。
その後はプリンシバルステークスを抑える競馬で勝利するものの、ダービーでは同じ競馬で終始折り合いを欠きサニーブライアンに敗北。
秋初戦の神戸新聞杯ではダービーの反省を踏まえ逃げる競馬を試みる。
直線半ばまでは圧勝ペースであったが、主戦の上村が追うのを止めてしまったためマチカネフクキタルに差されてしまう。
この騎乗によって、上村は主戦を降ろされてしまった。
続く天皇賞(秋)では河内洋が騎乗。
エアグルーヴに敗れるものの、逃げる競馬の原型はこのレースで出来上がったと言ってもいいレースだった。
不運だったのは、次戦のマイルチャンピオンシップでさらに出足の早いキョウエイマーチと当たってしまったことか。
ハナを叩かれ15着と大敗してしまう。
後の活躍からするとドタバタ感を覚える1年だが、この様子をじっと見ている男がいた。
武豊である。

運命の出会い

実は武豊は前々からサイレンススズカを狙っていた。
新馬戦でプレミアートに乗っていた武豊は、この馬を逃したことを激しく後悔していたそうである。
そこへようやく舞い込んできたチャンス。
これを逃す男ではない。
当時絶頂だった武豊が珍しく騎乗志願してきたのだから周囲は驚いた。
香港から始まったこのコンビが翌年の中距離戦線を熱く燃え上がらせていく。
バレンタインステークスから始まった連勝街道は3を数え、語り草ともなっている金鯱賞を迎える。
重賞では珍しい大差勝ちとなったレースだが、菊花賞馬・マチカネフクキタル、後に香港国際カップを勝つミッドナイトベッド、同じく連勝中のタイキエルドラドが参戦するなど、メンバーも相当に濃かった中での記録であった。
このころから息を入れることも覚え、いわゆる「逃げて差す」競馬を完成させた時期でもある。
続く宝塚記念は回避する予定であったが、比較的体調が良かったこと、そして何よりもファン投票で上位にランクインしたことで参戦の運びとなった。

G1勝利、そして伝説へ

宝塚記念では1番人気に推された。
勢いがあるとはいえ、G1は3戦して全て着外の馬であることを考えれば珍事といってもいい。
このレースでは、武豊がエアグルーヴに騎乗したため南井克己が騎乗した。
距離を考慮し、普段よりは控えめな逃げを打ったが、それでもステイゴールドやエアグルーヴを抑え堂々の逃げ切り勝ちを収める。
立派な勝利ではあるが、納得のいかないファンや関係者も多かったようである。
当時の阪神競馬場はインコースが完全なグリーンベルトになっていたこと、そして南井がそれを最大限に利用していたことが理由である。
こんな声が上がることこそが名馬の証、と逆説的に言えなくもないが。
ただ、陣営からしてみればたまったものではないだろう。
晴れてG1ホースになったのにケチを付けられたのだから。
そしてこの声こそが毎日王冠を伝説のG2としたのである。
当初、毎日王冠は回避して天皇賞(秋)へ直行する予定だった。
調整不足や帯同馬がいなくなるというアクシデントに見舞われたためである。
回避したら次は何を言われるか、誰の目にも明らかである。
強力な外国産馬、グラスワンダーやエルコンドルパサーから逃げた。
それで天皇賞(秋)を勝っても何の価値があるものか。(当時、天皇賞には外国産馬は出走できなかった)
陣営はその声を封じるため、あえて毎日王冠に参戦したのである。
レースは1,000m57秒7のハイペースでサイレンススズカが引っ張り、直線ではさらに後続を突き放して勝利した。
4コーナーから捕まえにきたグラスワンダーは逆に失速し、無理に勝負に来なかったエルコンドルパサーは無難に2着を確保。
エルコンドルパサー騎乗の蛯名正義は「影さえ踏めなかった」とコメントしている。
また、大川慶次郎さんは、青嶋達也アナウンサーの「古馬と4歳馬の差が出たのか?」という質問に対して、「サイレンススズカとエルコンドルパサーの差。サイレンススズカは並の馬じゃない」と語っている。
宝塚記念の勝利も含め、いわゆるアンチファンを黙らせるには十分な内容であった。
周囲の雑音を黙らせ、勇躍天皇賞(秋)へと参戦することとなる。

そして伝説へ

天皇賞(秋)では1枠1番を引き当てる。
同型のサイレントハンターがいたため枠順だけが気がかりだったが、まさに最高の枠を引き当てたと言える。
体調も抜群、距離も枠順もすべてがおあつらえ向きとなった。
単勝オッズは1.2倍。サイレンススズカが勝つか負けるかではない、2,000mを何秒で走り抜けるのかに期待が集まった。
レースは予想通りサイレンススズカが引っ張る。
2番手のサイレントハンターも後続を突き放してで2番手につけていたが、それよりもさらに2秒以上も前にいた。
手応えが全く衰えることなく3コーナーへ入るが、ついには運命の瞬間を迎えてしまう。
あのようなどよめきはそうそう聞けるものではないだろう。
ただ速いだけではない、その向こうにある世界への扉を開けることなくその生涯を終えてしまった。
ついに2つ目のG1タイトルを得ることはできなかったが、毎日王冠で下したエルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍が、サイレンススズカの実力を伝説にまで昇華させることとなる。

最速の機能美。速さは自由か孤独か。

武豊はその晩、ワインを煽り泣きながら泥酔していたという。
また、後に勝ったオフサイドトラップの時計(1分59秒3)に関して「サイレンススズカがそんなに早くバテる訳ない。ちぎって勝っていたはず。」というコメントを残している
今でもなお思い出すことがあるというが、これだけ偉大なジョッキーにここまで言わしめる馬、それがサイレンススズカなのである。

武豊はあるインタビューでこう語っている。
「なぜあんな大逃げを打つのか?それは走るのが大好きな馬だから。走っている時が一番楽しそうなので、その邪魔をしないようにしているだけ。」
そんな武豊だが、サイレンススズカの話をしている時の彼もまた少年のように無邪気な表情だった。武豊はその晩、ワインを煽り泣きながら泥酔していたという。
また、後に勝ったオフサイドトラップの時計(1分59秒3)に関して「サイレンススズカがそんなに早くバテる訳ない。ちぎって勝っていたはず。」というコメントを残している
今でもなお思い出すことがあるというが、これだけ偉大なジョッキーにここまで言わしめる馬、それがサイレンススズカなのである。

武豊はあるインタビューでこう語っている。
「なぜあんな大逃げを打つのか?それは走るのが大好きな馬だから。走っている時が一番楽しそうなので、その邪魔をしないようにしているだけ。」
そんな武豊だが、サイレンススズカの話をしている時の彼もまた少年のように無邪気な表情だった。

最速の機能美、サイレンススズカ。
速さは自由か孤独か。

これは2011年宝塚記念のキャッチコピーである。
これを考えたコピーライターは優秀だ。
サイレンススズカの全てを表していると思う。
サイレンススズカと武豊の出会いはトップアスリート同士の運命的な邂逅だったように思う。
アスリートとは元来孤独なものだ。
勝てない騎手は騎乗機会がなくなり、サラブレッドは勝てなければ処分されていく。
そんな世界で二人が極限のスピードの果てに目指したもの。
それは何ものにも邪魔をされず、ただ純粋に走ることだけを楽しめる自由な世界だったのかもしれない。

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