1996年3月13日生
父オペラハウス 母ワンスウェド
26戦14勝
2000年有馬記念。
パドックではこんな罵声が飛び交っていた。
罵声を浴びるはテイエムオペラオー、そして主戦騎手の和田竜二。
単勝オッズは170円。
勝って当たり前。
それは大きなプレッシャーとなった。
いや。
それ以上に、彼にはこのレースに大きな記録がかかっていた。
年間無敗の8連勝、古馬中長距離G1完全制覇。
それはシンザンも、シンボリルドルフも、ナリタブライアンですらも達成したことがない、
前人未到の大記録だった。
1996年春。
浦河の杵臼牧場で、岩元市三調教師とテイエム軍団の総帥・竹園正繼は栗色の牡馬を見初める。
「そんなに大きな印象はなかった」
と岩元は回想するが、その印象はすぐに改められることとなる。
調教が進むに連れて期待は大きく膨らみ、スタッフも素質の高さに太鼓判を押した。
その牡馬こそがテイエムオペラオーである。
やがてデビューを迎えたオペラオーだが、新馬戦では6馬身差の2着に敗れる。
期待が大きかった分、落胆も大きかったが、調べてみるとオペラオーは骨折していた。
幸いにも極々軽症で、年末には栗東に帰厩していた。
復帰戦こそ4着に敗れたものの、この一叩きで急上昇したオペラオーは続く未勝利戦を圧勝する。
その勢いのままに挑んだ毎日杯も圧勝。
年明けには夢のまた夢だった皐月賞出走が現実のものとなった。
追加登録料200万円を払って出走した皐月賞。
ここでもオペラオーは圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、あっさりとG1初戴冠を果たす。
骨折というアクシデントをも乗り越え、順風満帆に見えたオペラオーだったが、この後徐々に歯車が狂いだす。
全てとは言わないが、原因は主戦騎手の和田にあった。
皐月賞馬として挑んだ日本ダービーでは早仕掛けが原因で敗戦。
まだまだ地方回りが主だった若手の和田にとって、初めての日本ダービーが皐月賞馬だった、そのプレッシャーを考えれば仕方がない部分もあった。
しかし、クラシック最後の1冠・菊花賞でまたも和田の騎乗ミスで敗れてしまう。
この騎乗が、総帥・竹園正繼の逆鱗に触れる。
和田を降ろせ!
竹園は岩元に迫った。
しかし岩元は頑としてこれを拒否した。
時として調教師が盾になってやらねばいい騎手は育たない。
それは岩元の師匠・布施正の教えでもあった。
結局、竹園は岩元の熱意にほだされ自分の提案を取り下げた。
そして二度と、騎手の交代を口にすることはなかった。
とはいえ、一度狂った歯車が元に戻る事はなく、必勝を期したステイヤーズSでは格下のペインテドブラックに金星を献上する。
逆に有馬記念では、グラスワンダー・スペシャルウィークの2頭と接戦を演じるものの、あと一歩のところで金星を逃した。
このレースで評価を上げたものの、陣営の鬱憤を晴らすには程遠かった。
年が明けて2000年。
竹園はスタッフに盛んに激を飛ばすようになった。
「絶対に負けるな!」
「今年は一度も負けるな!」
竹園の強気な性格を知るものは軽く受け流していたようだが、ただ一人、主戦騎手の和田だけは受け流す事ができなかった。
前年に作った借りを返すには、本当に一度も負けるわけにはいかない、そう思っていた。
年明け初戦の京都記念で久々の勝利を得ると、返す刀で阪神大賞典も勝利。
迎えた春の天皇賞では、ナリタトップロードに絶望を与えるほどの会心の勝利をもぎ取った。
終生のライバル、メイショウドトウとの初顔合わせとなった宝塚記念。
苦しい戦いにはなったが、怒涛の追い込みで勝利。
2000年上半期を本当に全勝で走り抜けた。
それだけでも物凄いことだ。
しかし、本当の苦しみはまだ先にあった。
秋初戦の京都大賞典を当たり前のように勝利したオペラオーだったが、このころから他の陣営からのマーク、そしてマスコミの論調は非常に厳しいものとなった。
オペラオーに勝つ=レースに勝つ、そんな思いを抱いて挑んでくる挑戦者達。
秋の天皇賞こそ上手く抜け出して勝ったものの、続くジャパンカップでは周囲を取り囲まれながらもほんの少し開いたギリギリの隙間を抜けて勝利。
いよいよマジックは「1」となったものの、有馬記念ではどれだけのマークが待っているのか。
それを考えただけでも憂鬱になるほど、和田のプレッシャーは大きくなっていった。
そして迎えた有馬記念。
パドックでは冒頭のような罵声が飛んでいた。
無理もない。
宝塚記念、秋の天皇賞、ジャパンカップと3戦連続でテイエムオペラオー-メイショウドトウの組み合わせで決まっており、
ファンからすればとてもじゃないが馬券で儲けるなんてことができなかったのだから。
マスコミの粗探しもピークを極めた。
今度こそ負ける、これこれこうだから負ける。
さらには、相手が弱いからここまで勝ち続けられた、とまで言われた。
中にはオペラオーの偉業達成シーンを望む声もあった。
しかし、オペラオーが負けて高配当!というシーンを望む声が圧倒的だったことは間違いない。
そんな中、ついに運命のゲートが開く。
1週目の4コーナーで挟まれて大きく後退したオペラオーは、思いもかけず後方からの競馬を余儀なくされる。
それは勝利の女神が仕掛けた罠だった。
菊花賞の悪夢が和田の頭をよぎる。
あの時と同じように外を周ったらではダメだ。
ダメならダメで仕方がない。
思い切って内を突こう!
半ば開き直った和田は、仕掛けられた罠に敢然と立ち向かった。
その勇気は賞賛に値するものだし、陣営の誰もがその選択を望んだことだろう。
しかし、最後の罠はここに仕掛けられていた。
開かない。
前が全く開かない。
明らかにオペラオーに劣る末脚で直線を上がっていく他馬。
その他馬が壁になって全く前に進めない。
ライバル・メイショウドトウは早くから抜け出し悠然と前を走っている。
万事休す。
誰もが罠から抜け出す事をあきらめた。
最後の最後での敗戦を覚悟した。
だがただ一人。
いや、
ただ一頭、オペラオーだけはあきらめていなかった。
ほんのわずかな、隙間ともいえないようなか細い進路目掛けて、オペラオーは自ら突進し、勝利への道をこじ開けた。
まだ前とは10馬身近い差があったが、溜めに溜めた末脚を一気に爆発させ、瞬く間に10頭以上の馬を抜き去った。
恐らく勝利を確信していたであろうメイショウドトウをハナ差差し切った、そこがゴールだった。
過去のどんな名馬も、そしてどんな名手も貫徹できなかった王道を、ついに彼らは制覇したのである。
ついに迎えた21世紀。
オペラオーは世紀末の覇者から新世紀の王へとなるべく大阪杯に出陣した。
ここでオペラオーは、後藤浩輝騎乗のアドマイヤボスの執拗なまでのマークに遭い、ついに黒星を喫する。
この後藤の騎乗に対し、岩元は「あんな競馬が許されるのか!」と激怒したが、アドマイヤボス自身はオペラオーに先着しているのでこれは言い掛かりに近いと言える。
ただ連勝を止められた悔しさを考えればそれを責める気にはなれないが。
続く春の天皇賞はきっちりと勝ち、ついにシンボリルドルフのG1・7勝の最多記録に並ぶ。
この偉大な記録がついに破られる時がきた。
誰もがそう思った宝塚記念では、勝負どころで不利があり、ついにメイショウドトウに勝ち星を謙譲してしまう。
秋の天皇賞、ジャパンカップでは最高のパフォーマンスを演じながらも出し抜けを喰らい敗北。
ジャパンカップの反動がモロに出た有馬記念も5着に沈んだ。
結果的に、シンボリルドルフの記録に並んだ春の天皇賞がオペラオーの最後のタイトルとなった。
しかし、ジャパンカップでオペラオーを破ったジャングルポケットの渡辺調教師はこう述懐する。
「恐らくあの馬には二度と勝てない」
ベテラン調教師のその言葉は、弱い相手に勝ってきたという論調に対する雄弁な反論となった。
誰もが成し得なかった記録を達成したときよりも、負けたレースで強さを証明したとはなんという皮肉だろうか。
最後の有馬記念
レース前から、ここを最後にオペラオーは引退すると発表されていた。
そのパドック。
「おーい和田!来年からまたドサ回りか~!?」
最後の最後までこのコンビには野次が飛んでいた。
最強馬は誰か?
それが語られる場は多い。
未来の最強馬の誕生を望む声も多い。
しかし、
本当に最強と呼ぶにふさわしい馬が現れた時のファンの反応なんてこんなものかも知れない。
野次を聞いた和田は思わず苦笑いをしていた。
このページの画像は下記サイトよりお借りいたしました。
ご協力ありがとうございます。
© 2002 tochispo.