アブクマポーロ
1992年2月27日生 父クリスタルグリッターズ 母バンシューウェー
32戦23勝(地方競馬30戦22勝 中央競馬2戦1勝)

忘れ物を取りに来るのに歳なんて関係ネェぜっ!

「親父さん頑張れッ、忘れ物を取りに来るのに歳なんて関係ネェぜっ!」

漫画家・やまさき拓味さんによって描かれた、優駿達に蹄跡・特別版の一節である。

悪いことばかり続く中年サラリーマンが、東京大賞典で有り金全てをアブクマポーロの単勝に突っ込み、
見事に勝利したアブクマポーロがそのサラリーマンにエールを送る、、、というシーンである。

このシーンは、終生のライバル・メイセイオペラや、昨年の同レースで後塵を拝したキョウトシチーを蹴散らし
南関東の名物アナウンサー・及川暁が「アブクマポーロが昨年の忘れ物を取りに来ました」と実況した1998年・東京大賞典から来ている。

アブクマポーロは当時7歳(旧年齢)、人間で言えば十分におっさんだ。

アブクマポーロの物語はそんな中年の星の物語であり、地方馬でありながら数々の記録を打ち立てたエリートの物語でもあり、
それでもなお中央馬ほどの栄光を手にできなかった悲運の馬の物語でもあり、敗戦後の馬運車で悔しさのあまり壁を蹴り続けたファイターの物語でもあり、
盛岡競馬場の風光明媚な景色を見て放牧と勘違いしたおっちょこちょいの物語でもあり、
引退後に乗馬となるほどの優しい馬の物語でもあり、南関東の哲学者と言われるほど頭のいい馬の物語でもある。

平凡なデビュー~出川厩舎転厩

1992年2月27日、アブクマポーロはこの世に生を受ける。

父は数々の活躍馬を輩出したクリスタルグリッターズ、母は地方で90戦走ったバンシューウェー。

特別良い血統ではないが、それなりの活躍は見込まれていただろう。

たくさんの愛情を受けながら順調に成長、1995年5月5日に大井競馬場でデビュー戦を飾る。4歳時は8戦3勝2着2回
C1クラス止まりの平凡な成績であった。

10月のオパール特別C1のレース後に怪我が発覚。7か月の長期休養を挟むことになる。
翌96年5月に復帰後、アブクマポーロの運命を大きく変える二つの出来事が彼を待っていた。
当時開業したばかりの出川克己厩舎への転厩、そして主戦騎手が荒山勝徳から名手・石崎隆之へと変更されたことである。
この出来事がなければ、恐らくアブクマポーロがこれほどの名馬になることはなかったであろう。

騎手変更はともかく、転厩については何がどう良かったのかは説明できない。よほど相性が良かったのだろう。
デビュー時とは馬が一変し、結局96年は先に述べた復帰戦も含め4戦4勝。いよいよ本格化の兆しが見える。

遅咲きの本格化、破竹の連勝街道

6歳に入っても勢いは衰えず、初の重賞挑戦となった大井記念に勝ち、あっさりと重賞馬となる。
2着はナイキジャガー、前走・マイルGPではあのコンサートボーイと接戦した馬だ。
それを、負担重量52kgと斤量に恵まれた面はありながらも6馬身差を付けたのである。
実力を満天下に見せつけた、といっても良い圧勝劇で、連勝記録を7まで伸ばした。

続く帝王賞は3番人気で出走したが、コンサートボーイの後塵を拝し2着、連勝が止まった。
だが、1番人気のバトルライン、2番人気のシンコウウィンディには先着し地方馬によるワンツーフィニッシュとなった。

当時、暮れの東京大賞典が2800mで行われていたこと、またこのレースを勝ったコンサートボーイが2000m辺りが限度であったことから、
下半期はアブクマポーロが主役になることが期待された。

その期待に応えるべく出走したサンタアニタトロフィーを快勝、唯一の芝レースとなったオールカマーはメジロドーベルになすすべなく敗れたものの、
続くグランドch2000ではコンサートボーイにリベンジ、再び中央競馬に乗り込んだ東海ウィンターステークスでは中央の雄・トーヨーシアトルを破った。
あとは本番、東京大賞典のみである。

その東京大賞典では1番人気に推された。ここも圧勝、と思われたが、長距離戦を得意としたトーヨーシアトルとキョウトシチーに遅れを取り3着に敗れた。
着差は3馬身半と小さくなかったものの、アブクマポーロの時代到来と思わせるに値するレースぶりを見せつけた。
7歳に入るとさらに凄みを増し、GⅠ・川崎記念を皮切りに、ダイオライト記念、マイルグランプリ、かしわ記念(当時GⅢ)、
帝王賞、日本テレビ盃(当時GⅢ)まで、いずれも1番人気で圧勝の内容で6連勝を飾る。
とくにかしわ記念はコースレコード(1分35秒4)であり、このレコードはいまだに(2018年10月8日現在)破られていない。
続くマイルチャンピオンシップ南部杯でも断然の1番人気に推されたが、地元の英雄・メイセイオペラを捕らえられず3着止まり。
実は、長距離輸送に加え盛岡ののどかな風景を見たことで放牧と勘違いしたという逸話が残っている。
そんなところもアブクマポーロの魅力の一つなのだろう。

決戦!東京大賞典!

マイルチャンピオンシップ南部杯では不覚を取ったものの、いよいよリベンジの時を迎える。
前年敗れた東京大賞典である。
この年から距離が2000mに短縮されたことはアブクマポーロにとってプラスと見られたのであろう。
このレースでも1番人気に支持された。
トーヨーシアトルこそいないものの、同年のGⅠ・フェブラリーステークスを制したグルメフロンティア、 前年2着のキョウトシチー等、確かな実力のある中央馬が多く参戦していた。
しかし、この年の中央馬はアブクマポーロとメイセイオペラの地方馬2頭の露払い程度にしか見られていなかった。
この2頭にはそう思わせるだけの凄みがあった。

レースは、前を行くメイセイオペラをマークする形で5番手に付けるアブクマポーロ。
先に動いたメイセイオペラを追うように上がっていき、さあ一騎打ち!と思ったのもつかの間、
あっさりと捕まえ突き放したアブクマポーロが2馬身半差をつけ快勝。
冷静でクールな石崎騎手が珍しくガッツポーズを決めた。
冒頭で紹介した名実況が生まれたのもこの瞬間である。

2強対決と呼ぶにはあっけない結末であったが、そのメイセイオペラが次走フェブラリーステークスを制し、
地方馬初の中央GⅠ制覇という歴史的快挙を成し遂げたのだから、アブクマポーロの怪物ぶりもより際立った。
周りが弱かったのではない、アブクマポーロが強すぎたのだと。

絶頂期のアクシデント・・・そして引退

年が明けた99年。
当たり前といえば当たり前だが、JRAからは何の賞もなかった。
98年、アブクマポーロは4億5100万を稼ぎ出している。中央1位のスペシャルウィークは4億4365.9万円。
地方所属馬が年間獲得賞金額で1位となったのは、日本の競馬史上、ハツシバオーに続き2頭目である。
9戦すべて地方競馬での出走で、中央競馬での出走はなし。地方交流重賞7勝、南関東重賞1勝という成績を残しているのだが・・・
賞のために競馬をしているわけではないだろうが、何らかの賞があってもよかったのではないだろうか?

そんな思いが陣営にあったかどうかは定かではないが、全く気にするそぶりを見せずに川崎記念、ダイオライト記念を連覇。
出川克師はどちらのレース後も「メイセイオペラと対戦するまでは負けられない」とコメント。
衰えなどまるで感じさせず、来る帝王賞へ向け、中央のGⅠ馬となったライバルを迎え撃つ準備をしていた矢先にアクシデントがアブクマポーロを襲った。
馬房内で左後肢飛節捻挫を発症したのである。
北海道で治療し、一旦は帰厩したが「本来のポーロに戻るには時間がかかる」との判断から引退。
強いアブクマポーロのままでの幕引きだった。

引退後は種牡馬となるものの産駒は振るわず、GⅠはおろか重賞ウィナーすら生まれなかった。
やはりアブクマポーロが特別過ぎたのであろう。
これまでたくさんの名馬を乗り続けている石崎隆之騎手が一番強かったのはアブクマポーロと公言をし、
管理していた出川師は、「何か相談事があると、よく4人で話しをしていた。石崎さんと楠厩務員とポーロと。
ポーロは話せないけど、ちゃんと言葉を聞いてその中に入って会話をしていた」と話す。
このあたりが哲学者と言われる所以か。

種牡馬を引退した後は乗馬となり、特に女性初心者の練習用として使われているらしい。
乗馬をする人ならわかると思うが、よほど気性が良くなければできないことである。
ここまでの名馬としての余生としてはどうかという声もあるが、これもアブクマポーロらしさといえばらしさか。
時間のある方は是非一度アブクマポーロに会いに行ってみてほしい。
現在は、北海道石狩市のオーフルホースコミューンに繋養されている。
既に25歳を超え高齢の域に達しているが、大記録を打ち立て、冴えないおっさんを励まし、中央のエリートを蹴散らし、素人の女性を背に乗せる、
そんな摩訶不思議な馬の元気な姿を見られるはずだ。